1957:昭和32年4月 36人が生き埋め、19人死亡 津南町で雪崩惨事
4月12日午後10時15分頃、津南町樽田地内の亜炭採掘飯場で地滑りが起き、積雪とと
もに巨大な雪崩となり、下にあった住宅6棟のうち2棟を半壊した。このため、被災2棟に
就寝中の家族など36人が生き埋めになった。
急報に接した津南町消防隊員など約 1,000人が駆けつけ、26人を救出したが、うち9
人は既に息絶えており、残る10人もやがて遺体となって掘り出された。
1944:昭和19年12月 加治川の桜、本格伐採始まる
稲の生育に悪影響とされ、伐採が検討されたが、前年は花を惜しむ声も無視できず、枝下ろ
し程度に終わった「長堤10里」加治の桜も、19年に入るや、本格的な伐採が始まった。
貴重な軍用材として供用されるほか。土地基盤整備の用材や、木炭、薪と用途は広い。「世
界一の名勝地としてあくまでも残すべきだ」との反対もあったが。「戦争を勝ち抜くのが先
決」との論が大勢を制した。
(稲の生育に悪い? 木を切る為の言い掛かり?)
(残った桜も羽越水害後の堤防の改修工事の為、全て伐採されたとの事。)
1944:昭和19年7月 伐倒される日本一の巨木
中蒲川東村(現・五泉市)柄沢の稲荷神社にある有名な神木、樹齢500年の大ケヤキ伐倒
作業が9日、着手された。巨木は2本あったが、腐朽が進み、今冬の積雪で倒れたため、急
遽残りの1本を切り倒すことに決まった。目通り3丈2尺5寸(約9,85m)もある巨木ぶ
りに請負者もびっくり。「幹の空洞からは片羽40cm 近いバンドリ(ムササビ)が飛び立っ
たり、1,5m もあるヘビがとぐろを巻いたりしていて、驚かされっ放しです」と語っていた
製材として用いられる部分は神社の用材とし、他は氏子が分けることになった。
1943:昭和18年11月 東頚の亜炭に脚光、本格採掘始まる
11日、東頚松代村を中心とした亜炭の本格採掘が始まった。東頚松代村を中心に松之山、
浦田村の山々、また信越県境の菱ヶ岳一帯に推定50〜60万トンの優良な亜炭が眠ってい
るといわれる。既に松代村では5ヶ所で採炭が始められ、柏崎、十日町方面の重要工場、郡
内官公庁の燃料として使用されている。県自動車協会でもこの天然の宝庫に着目、調査した
結果高カロリーの優良亜炭50〜60万トンが埋蔵されているとの確信を得た。協会ではこ
れを県内自動車の自給燃料として活用するため、18年度から亜炭を原料にコーライト製造
に着手することに決めた。
1943:昭和18年11月 船材として戦場に出る米山の杉
中頚黒川村の米山山中にオノを振るう乾いた音が響いている。戦局が逼迫しているだけに船
材はいくらあっても足りない。100年を超す杉の巨木が、雪の中に連なっている。直径1
m、高さ40mの杉林は荘厳な感じさえ抱かせる。それを無視するように巨木の根元にオノ
が食い込む。伐採班は米山おろしが吹きすさぶ山中に山小屋を構え、合宿に入った。人里離
れた雪の山中で、男たちの闘いは終わりが無い。
1943:昭和18年11月 溝口藩ゆかりの300歳の老松が出征
「鏡ヶ岡お松」として知られる新潟沼垂国民学校校庭の樹齢300年を誇る老松10数本が
8日、船材として供出されることになった。溝口藩がここに米倉を設けた時に植樹されたも
ので、いずれも200〜300年を経ているもので、直径65cm 以上の巨木ぞろい。
明治37年、沼垂小学校が開校されてから70年、5000人余の卒業生にとっても思い出
深い松だが、船材として国に召されることになった。
※ 溝口藩?(新発田藩の溝口公?)
日本産業経済新聞 1943.2.25(昭和18)
亜炭増産好成績>
山口燃料局石炭部長は二十四日の衆議院戦時行政特例法案委員会に於いて庄司一郎氏の質問
に対し左の如く亜炭砿業の育成方策と最近の増産状況を説明した。
山口石炭部長我国の亜炭資源は本州にあり消費地に近く船によらず輸送し得る点、浅い地層
にあり掘採が簡単なる点で有利である、その埋蔵量も充分調査されているが遺憾ながら小炭
坑が多すぎること、カロリーが低いことなどに欠点を持っている、これらに対しては亜炭砿
業連合会を結成し指導しており所要資材も法規、内規の運用等によって配給している、併し
亜炭の増産の為に石炭山の資材が制約され或は労務が流れる等のことがあってはならないの
でこの点を睨み合せ生産地と消費地の接近している地点で増産せしめている、最近は全国的
に増産となっているが殊に東北地方は十五年度に比較して十六年度は三倍、十七年度は五〜
六倍となっており、帝都にも毎月二万トン以上も輸送されている。
1943:昭和18年1月 中蒲七谷村、雪中の軍需材搬出
正月にも拘らず、中蒲七谷村鰍澤の山奥では、酷寒と闘い、軍需材の搬出に命がけの奮闘を
続けている一団があり、25日、作業が開始された。17年秋に伐採した木材を雪の下から
掘り出しソリに積み、巨木の先に馬乗りになって県道まで運ぶ作業は男ならではの仕事。ソ
リに取り付けられた2本のブレーキ棒が命の綱だ。巾1.6m の桟橋もくぐり抜けなければな
らない。大小の雪崩が体をかすめる。
事実何人もの生命が雪に散った。だがここで働く50人の男たちは恐れも知らぬげに雪をけ
たてている。
1941:昭和16年5月 財界の元老 白勢春三 死す
県下財界の長老として貢献してきた白勢春三、前貴族院議員(80 才)が25日、新潟市の本
邸で肺炎のため死去した。
1941:昭和16年5月 新津町の油井で大噴油
8日、新津町馬寄油田の日石第13号ロータリー井が深度1,440mに達したとたん、約100
万立方mのガスとともに、猛烈な 勢いで石油が噴出した。あまりのすさまじさに善後処理
が難航したが、漸く制弁装置の取り付けに成功、安定した産油量を確保できるようになった。
この鉱区にはやはり日石の12号井も並行堀削中であり往時の石油王国復活が期待されるこ
とになった。
※ 当時既に、石油産業は斜陽だった。
日本工業新聞 1940.2.25(昭和15)
地震探鉱法で新潟の石油を探る地質調査所
商工省地質調査所では波多野満蔵氏が主任となって地震探鉱班を設け石油資源開発の為め一
昨年から新潟県中頚城郡片町村、明治村、同南蒲原郡大口油田、同北蒲原郡水原町並に秋田
県山本郡、北海道石狩郡等に出張し地下の弾性的振動を媒介として石油を含む地質構造の探
査を行っているが、何れも平原なので通常ならボーリングしなければ発見できぬ処もこの地
震探鉱により確実、容易に地質構造を推定することが出来、油田開発に貴重な資料を得たの
で三月上旬には新潟県長浦村に出張同様の探鉱を行うことになったこの地震探鉱法は東京帝
大工学部教授青山秀三郎博士の研究になるものと略同様の方式であって、石油資源の開発が
刻下の急務となっている折柄、注目を惹いている尚地質調査所ではこれと別に地震探鉱法に
よる石炭資源の調査を行っているが今年は十月頃に北海道釧路炭田の地震探鉱を行うことに
なっている。
1939:昭和14年5月 新津油田、大噴出
新津町柄目木の中島石油3号井は、予測深度310mを突破しても石油噴出の気配が見えず
やや期待はずれだった。やむなく掘削を続けていたが5日、深度330mに達したとたん、
大音響とともに原油を噴き上げ、20m近く離れた県道にまで流出し始めた。快報に接した
新津署でも警察官を繰り出し、防火に万全の体制を敷いた。
東京日日新聞 1938.10.22(昭和13)
石油採取に新威力 我国最初の坑道掘 大野日石所長の研究稔る
商工省は液体燃料自給促進補助費十一万七千円でわが国最初の坑道堀り石油採取の実験を今
年から開始することになった、石油の坑道堀りは従来の井戸掘り式にくらべ効率百パーセン
トで実験される油田は新潟県新津及び東山、秋田県桂根の三ケ所で採油方法は井戸掘り式で
採油不能となった油田の地底に縦坑を掘り油層に達してから更に横に坑道をうがち直接採油
し更に付近の油砂を採取するのである、この坑道掘りは日石柏崎製油所長大野忠雄氏(四八)
が多年苦心研究を続け本年四月の石油時報に地下の遺利石油五十万キロトンを採取せよの論
文を発表して以来戦時下軍部の関心はこの方面に注がれ同氏の論文を検討した結果政府事業
として開始するに至ったものである、同氏の所説によれば石油の香さえあれば如何なる地層
からも十五パーセント以上の石油を採取することが可能で従来油層はあったが単に滲み込ん
でいる程度で汲み上げ不能の地層が坑道掘りによって始めて採油されさらにその付近の油を
含む土砂を化学的処理法によって少くとも五十パーセント以上の油を抜取ることが出来ると
いう、この方法によれば地下の石油は微細の分でも採取出来るわけである(柏崎発)
※誤植部分は訂正