五十島鉱山跡

 水上、掛居への道の痕跡は見えてもそこへ至るまでがね・・・旧道を歩いてみたいけど体力的に無理そ うですというか、時間がかかりそうですね。持倉山から下りた方がよさそうです・・・持倉山は餅倉山と も表記されるみたい、持倉じゃない五十島鉱山ネタ  適当に消すかもね・・・

寺田助松さんの事は置いといてと・・・
持倉鉱山で働いていた早川隆吉さん祐吉?さんが蛍石の事を教え、大正の頃には、五十島の渡辺さんが採掘し販売し ていたと。その後、松永さんが引き継いだが探鉱のみと伝えられています。
地質図の解説書によると東北振興㈱が戦時中に蛍石を採掘していたようです、東北振興㈱って昔の新聞の 断片から妄想すると東北振興アルミニュウム㈱の事みたいです。第二次世界大戦中の国策会社のようで、 工場は郡山市かなアルミニュウム製造には蛍石が必要だったみたい。ソース?ソース見る?裏が取れん! 昭和21年から3年間の鉱産量の資料がないのは、戦後暫くは休業していたからです。
で五十島鉱山といえば普通は五十島鉱業㈱五十島鉱業所の事で杉並区に居た時期もありましたが、 本社は東京都文京区駒込上富士前町にありましたとさ、更に銀座にお引越し 三井鉱山との関連は不明ですがね、そこ迄チカラを入れて調べていませんので悪しからず。
操業は昭和24年頃で、当時は採掘現場から蛍石を人が背負って持倉鉱山の事務所跡迄運び貯鉱所のように して、そこから駅まで、牛馬を使って搬出していたそうです。閉山間近の頃には鉄索(架空索道)使っていたそうです、 コースから判断して、持倉鉱山の鉄索コースとは重ならない。1963年昭和38年1月豪雪・いわゆる38豪雪(さんぱちごうせつ) で甚大な被害を受け操業を止めたようです。

山菜のコゴミの柔らかい緑
飯場跡かな

山菜としては伸び過ぎですが
トタン板と鉄パイプだらけ

2口のカマドです
カマドの跡

お風呂跡♪
カマド跡 奥が風呂跡の図

どうしてもレバーは動かしてしまいます
レバーは動きます 下の方がないから

屋根の残骸
雪下ろしをしないと潰れます

動かす力だヤンマーディーゼル♪
動力源はヤンマーです

四角ですね
四角いバケット

これも重そうですね
どうやって搬入したやら・・・

劣化が少なそうです
動きそうですね

銘板をアップ
型式:GMH2 昭和32年製

エアマン by 北越工業㈱
タンクが目立つね

旅立ちの場所?
太陽の光を浴びて ここから蛍石は出発したのかな

五十島鉱山のとある坑口
とある坑口

五十島鉱山の別の坑口
別の坑口

土砂が流れているし
杉林の向こう 下流側が索道の終着点かな?

索道の終着点かな?
ここから陸送したと妄想しています・・・


蛍石の産出量
年号:昭和16年17年18年19年20年21年22年23年24年
西暦1941年1942年1943年1944年1945年1946年1947年1948年1949年
鉱産量トン1202506311,786489146
品位%75〜857560〜7560〜7560〜8069

昭和25年26年27年28年29年30年31年 32年33年34年35年36年37年
西暦1950195119521953195419551956 195719581959196019611962
トン9181,3281,3501,2301,368587650 7907501,0421,307835770

※本邦鉱業ノ趨勢 と新潟県統計年鑑で産量に齟齬を生じた場合 前者の数字を採用しています。

参考文献
  ・越佐の風物:新津営業所 田村勇作
  ・新聞記事文庫
  ・新編会津風土記
  ・新潟県地質図解説書 1977
  ・新潟県統計年鑑
  ・日本の鉱床総覧(上巻)
  ・本邦鉱業ノ趨勢
  ・その他

どっちがどっち?