蔵光鉱山、水谷銀山跡

 蔵光鉱山跡を見てきたよ! 林道のゲートがジャマ・ネズミは足が短いからね・・・明治から大正にかけて栄えていたらしく最盛期には200人位の方が働いていたそうです。いまでも、川の両側には苔む した石垣が残っていますね。銀の品位の高い鉱山のようでした。日本金山誌では蔵光鉱山とありますが、地元や昔の資料では、水谷銀山と呼ばれていたようです。
日本金山誌によると、(記述の間違いがあるけどね)600年以前より探鉱が行われたといわれ歴史は古いそうです。明治初年中島某が塩化焙焼法で精錬したと伝えられているとか。大正12年(1923年)石川 県人、村田時次郎さんが陶土を掘るかたわら、旧廃石を再選鉱して売鉱したという。その後、新潟市の中橋嘉助さんが鉱業権を買収したけど、結果をみずして放棄。その後、鎌田貞男さんの所有となりました。 この頃には、けい石等を目的とした採掘になっていました。昭和34年(1959)2月に廃石を発見した多田隈さんが、翌年、昭和35年に10数人で取分けをしたそうです。

水谷銀山跡の標柱

スキー場に向かう途中に昔はこんなのがあったよ
水谷銀山跡の標柱 裏側には・・・
明治から大正にかけて採掘された。最盛期には、二百人余りの坑夫が働き、
選鉱所、精錬所のほか長屋、郵便取扱所、学校分教場があり賑わった。
大正の始め鉱脈が薄くなり廃坑となった。 側面には・・・
菅谷地域コミュニティ実行委員会



標柱
二代目?の標柱

標柱
二代目?の標柱

石垣
石垣が残っています♪

♪
坑口へ向かいます♪

ご立派!
?・・・^^♪

水谷銀山の坑口♪
坑口♪

水谷銀山跡の坑口♪
水が溜まっているけど

坑口♪
上の坑口☆♪

鉱山集落跡より一山越えた スキー場側の上三光沢?にある 探鉱の為に掘られた上谷坑は林道の終点より300m先の右岸にあります。 確かに道の痕跡が有るようですが・・・
看板の設置場所と現在地の場所が一致していると此処はミタニ沢という事ですが(金山誌では上三光沢との記載) フト疑念が湧くわけでして  もしかしたらだけど水谷銀山って ミタニギンザンって読むのでしょうか? 大正時代の資料にミズタニって分かる資料があったから安心 ミズタニギンザンで良かったのね 阿賀町の水谷はスイタニと読むらしいのですが やはり地名等の漢字の読み方は難しいです。

看板
林道の終点にあった看板

水谷銀山 上谷坑
坑口 上谷坑

水谷銀山 上谷坑♪
坑口へ向かいます

綺麗な水
サンショウウオの気配? 二方向に掘ってある

短い
東方向へ 3m位

水谷銀山 上谷坑 コウモリさんはいない
北方向へは 10m位で止まっていました

・・・
水を濁らして しまいました

ナメコ♪
ナメコです♪

資料が少ないね、鉱区ネタも・・・
年号 西暦 町村名 鉱山名 鉱種 鉱区(坪) 鉱産量 鉱産量 鉱業権者 住所
               
明治28 1895 蔵光村 金、銀 150,000 大町與七郎 外1名
明治29 1896 蔵光村 金、銀 150,000 銀9,907匁 37.15kg
                 
明治31 1898 蔵光村 水谷鉱山 金、銀 150,000 銀57,719匁 216.4kg 大町與七郎 外1名
明治32 1899 蔵光村 水谷鉱山 金、銀 150,000 銀71,767匁 269.1kg
明治33 1900 蔵光村 水谷鉱山 金、銀 150,000 銀56,668匁 212.5kg
明治34 1901 菅谷村 水谷鉱山 金、銀 139,063 銀72,880匁 273.3kg
明治35 1902 菅谷村 水谷鉱山 金、銀 139,093 銀55,818匁 209.3kg
55.818貫
↑明治35年(1902年):匁か貫か不明瞭 鉱区坪数の揺れは原本のまま
明治43 1910 菅谷村 水谷銀山 金、銀 93,703 田中孝吉 外1名 新発田町
明治44 1911 菅谷村 水谷銀山 金、銀 93,703 田中孝吉 外1名 新発田町
明治45 1912 菅谷村 水谷銀山 金、銀 93,703 土田文吉 東京市
大正02 1913 菅谷村 水谷銀山 金、銀 93,703 土田文吉 東京市
大正03 1914 以降の記載がありません 廃止されたものと思われます 標柱の記載内容のとおりでした
※明治34年(1901年)蔵光村は合併して菅谷村になりました
鉱区の登録は、明治27年(1894年)12月25日  明治初年の頃の資料は?


陶石?白い石が・・・