小俣鉱山跡
新潟県の村松町の小俣鉱山跡を、見てきたよまだ残雪が多いんだね明日からは五月なんだけどね・・・
郷土史によると「明治9年(1876年)に斎藤五六郎さんの発見に始まり銅及び亜鉛を産すれども採鉱は銅
を主とするを以って小俣銅山と称す発見当時の採鉱高は2万貫以上に達せりという」明治33年(1900年)
以降の採鉱量も記載されているけどね。
鉱区一覧には大正6年(1917年)の出鉱量が最後の掲載で大正
7年(1918年)の出鉱量は記載がなくて大正9年(1920年)には小俣の名前すら消えているんだね、鉱脈
が尽きたのかな?それとも大正不況の影響かな? 持倉鉱山等が閉山した時期とも近いですよね。最盛期には、
従業員が40名程いて真吹精錬をしていたそうです、カラミと木炭も落ちていたけどその名残かな?・・・多分
静岡県富士郡吉原町の堀内半三郎さんが経営していた時に閉山したのかな? 昭和26年12月静岡県三島市の植松巽さん
が鉱業権を得て昭和27年には再開の準備をしていたそうですが、
湧水の問題もあってようですがその後の消息は知りません。そういえば今は村松町(むらまつまち)じゃないんだ 今は五泉市か・・・
ようやく坑口を発見
別の角度から 水がコンコンと♪ 白い点は虫です
カラミ、木炭もありました
川の中から白い物を拾ったら、茶碗のかけらでした
下流の方にも坑口が
左岸に竪穴と思ったら坑口でした?
北東の方向を眺める 亦六山と日倉山かな?
小俣鉱山とは関係ないのですが 仏峠の分岐点?にありました
今回もカモシカさんの通り道にお世話になりました♪ 感謝
日本鑛業會誌の『越後蒲原地方に於ける銅及亞鉛の接觸鑛床』には
本鑛山は大正元年以來小規模に稼行せられ採掘したる銅鑛は之を日立鑛山又は東京に輸送す、
明治四十四年より大正四年に至る銅鑛の産出額は・・・ 一応 トン換算してみました。
ちなみに中蒲原郡誌 中編には明治三十三年からの産量と金額が記載されていますが・・・
年号 | 西暦 | 産量(精鉱) | 産量 トン |
明治44 | 1911 | 6,285貫 | 23.6t |
明治45 | 1912 | 25,814貫 | 96.8t |
大正02 | 1913 | 108,683貫 | 407.6t |
大正03 | 1914 | 42,512貫 | 159.4t |
大正04 | 1915 | 12,649貫 | 47.4t |
以下 鉱区一覧による 追記 | |||
大正05 | 1916 | 87,216貫 | 327.1t |
大正06 | 1917 | 34,975貫 | 131.2t |
参考文献
・日本鑛業會誌 Vol. 34 (1918) No. 401
・ 中蒲原郡誌 中編
・新潟県早出川および大谷川両地域鉱床調査報告 1952
・その他
・日本鑛業會誌 Vol. 34 (1918) No. 401
・ 中蒲原郡誌 中編
・新潟県早出川および大谷川両地域鉱床調査報告 1952
・その他