鹿瀬鉱山跡

 新潟県阿賀町の鹿瀬鉱山跡を見てきました。 明治37年頃に津川町の大堀正作さんが開発されたようです故に大堀鉱山とも呼ばれているようですね。 最初の頃は美濃和鉱山という名称だったそうです。その後は鹿瀬鉱山という名称になったそうです。 当初、坑口は五ヶ所あったようですが、有望なのは二ヶ所だったそうです。 1917年:大正6年の資料では、五月より八月に渉り新たに通洞百八十尺を開鑿し鉱石捨石の搬出に複胴式電気巻揚機の据付を設計し目下工事進捗中にして 大正七年四月竣工の予定なり選鉱に付いては従来の手選鉱の外に機械選鉱場の新設に著手し七年二月竣工の予定なり 同選鉱場に設置すべき諸機械「ブレーキクラッシャー」1、「ハルツシッガー」2、「クロームロール」1、「ハンチントンミル」1、「トロンメル」2、「ウイルフレーテーブル」1、 にして原動機として三相交流電動機三基(三十馬力)を据付く。
とありますが、この設備投資の後に大正のバブル景気が弾けたのか、鉱業権が横浜市本牧町の白田謙四郎さんに移ったようですね。 その後、昭和の初頭迄続いたようです。1939年:昭和14年頃は東京の高橋芳雄さんが鉱業権を所有、第二次世界大戦中にも掘ったのかな?
明治年間は、角神に製錬所があったので草倉銅山に売鉱していたと想像出来ますが、角神の製錬所が閉鎖後の売鉱先は、八茎鉱山だったようです。
大正時代の資料には有望な坑口が二ヶ所とありますが、一ヶ所しか見つけていませんが。
第一村人さんに、謎の建造物を尋ねましたが正体不明です。 東山鉱山の坑口の場所を教えて戴きましたが埋もれて跡形もなし、別の坑口も可也前に埋め戻したとの事、 埼玉ナンバーの人間にタラの芽を盗まれたとお怒りのご様子、民家近くの山菜は採らないでね。

無関係だったりしてね
石垣

炭焼釜?
炭焼釜かと思いきや

通洞坑?
坑口ですね

レンガ
洒落たつくりです

第一村人さんにも不明
何でしょうか?

レンガ
上部には赤レンガ

猿の糞だらけ
景色でもどうぞ

川のほとりにて
阿賀野川の水面(みなも)

年号西暦鉱山名鉱区面積(坪)鉱業権者産年産量(原本)産量
M441911鹿瀬鉱山177,397大堀正作
M451912鹿瀬鉱山177,397大堀正作M45銅精鉱500貫1,9トン
T021913鹿瀬鉱山177,397大堀正作T02銅精鉱9,589貫36.0トン
T031914鹿瀬鉱山177,397大堀正作T03銅精鉱27,185貫102.0トン
T041915鹿瀬鉱山77,397大堀正作T04銅精鉱55,194貫207.0トン
T051916鹿瀬鉱山77,397大堀正作T05銅精鉱408,583貫1,532,2トン
T061917鹿瀬鉱山77,397大堀正作T06銅精鉱203,430貫762.9トン
T071918鹿瀬鉱山77,397大堀正作T07銅精鉱78,857貫295.7トン
T051916鹿瀬鉱山177,397大堀正作T05銅精鉱408,583貫1,532,2トン
T061917鹿瀬鉱山177,397大堀正作T06銅精鉱203,430貫762.9トン
T071918鹿瀬鉱山177,397大堀正作T07銅精鉱78,857貫295.7トン
T081919鹿瀬鉱山177,397白田謙四郎T08銅精鉱11,387貫42.7トン
T091920鹿瀬鉱山177,397白田謙四郎T09銀銅鉱49,080貫184.1トン
T101921鹿瀬鉱山177,397白田謙四郎T10銀銅鉱13,401貫50.3トン
T111922鹿瀬鉱山177,397白田謙四郎T11
T121923鹿瀬鉱山394,357白田謙四郎T12銀銅鉱20,081貫75.3トン
T131924鹿瀬鉱山394,357白田謙四郎T13銀銅鉱4,190貫15.7トン
T141925鹿瀬鉱山394,357白田謙四郎T14
S011926鹿瀬鉱山394,357白田謙四郎S01銅鉱3,901貫14.6トン
S021927鹿瀬鉱山白田謙四郎S02銅鉱2.666貫10.0トン

参考資料
  ・本邦鉱業ノ趨勢
  ・鉱区一覧
  ・その他


赤レンガ