坂井鉱山跡(坂井銅山)=赤滝銅山
間瀬銅山界隈のヤマ 岩室村史 (間瀬郷土史:今井義雄 氏談による)太刀川鉱山 | 明治期に最盛 大正6年(1917年)以降銅価の下落などで閉山 経営者 長岡市 鷲司その後、昭和18年(1943年)頃、加茂の落合氏経営により 1年位掘ったが年間5トン位で昭和19年10月頃やめた |
鉢前銅山(八前銅山) | 明治期に多少の産出もあったが、硫化鉱が多く質が劣る 滝の横から掘り進み坑内は水で作業困難。 2〜3人で採鉱。 大正7年(1918年)銅鉱がなくなり閉山。 |
赤滝銅山 | 間瀬集落から約2kmの場所、鮫ハゲ山地内 坑口は滝の横にあり精錬所もあった 明治35年、小須戸町の吉田一策の経営、明治末に閉山する 大正期に入り三宅組、安間氏が再開発。 大正5年(1916年)頃、閉山 |
上記鉱山のおおまかな位置が記載されている郷土史の地図を頼りに探してみますか・・・地図の中で唯一正確そうな場所、本当は一番低い所で楽そうな場所?の赤滝銅山からね、
坑口が4個あるらしいのですが、1個しか見つけられませんでした。精錬所もあったらしいのですが。
坑口のかなり下流の左岸の方には焼釜の馬蹄形の石積みの跡が、もしかしたら荼毘(だび)用
だったりして・・・ズリもカラミも見つけられませんでした。
下の写真の付近も開ノ木平(昔は柿ノ木平?)らしい、鉱区の変遷からは赤川良作さんが鉱区を所有。その後、坂井氏が採掘して坂井鉱山(坂井銅山)と呼ばれ最後には白勢氏に、
鉱業権が渡ったと思われます、根拠は2級河川のデータと林道の名のみ! 鉱区の登録番号で所有者の変遷だけは分かるけどね。
郷土史の地図は、赤滝銅山以外の場所は怪しい。鉢前銅山はそんなところにはないよ、太刀川鉱山もそこじゃないよ・・・
今井さんの記憶を疎かにしている訳じゃないけれど、郷土史の地図を丸ごと信じるほど無邪気じゃないか
らね・・・鉱区一覧や地質図を盲信するのも危険だけどね。誤植等も在り得るし・・・頭が悪いから
鉱区名表記で統一しなきゃ、ごちゃごちゃになるよ・・・
取水用の堰?
人が積んだ石垣だね
坑口ですか? 周辺がひらけていました
坑口でした 赤滝銅山坑口と断定!
赤滝銅山=坂井鉱山(坂井銅山)
奥の石垣 堤防の役目?
彩りに・・・ チャワンタケの仲間?早春にキノコ?
坂井さんのお孫さん達が、1983年(昭和58年)4月に、60年ぶりに坑口を発見されたそうです。それ
で祖父の為に、佐渡見台に『坂井銅山史跡』の記念碑を建立しました時は、1983年(昭和58年) 9月13日
地鎮祭、10月 9日除幕式が行われましたと、「広報いわむろ」第258号、第259号(昭和58年10月、11月)
に掲載されています。
碑の裏側には大まかな経緯(いきさつ)が記されています。明治34年に赤川良作氏より鉱区を買って
その後鉱区を増やした事などです、想像通りでした。 下記の碑の裏側の写真では一部住所表記を消しま
した。明治43年の鉱区一覧では、住所が間瀬村4445で鉱業権者が坂井三良さんとなっているのが、
妙に気になるんですけどね。
多宝山登山?の帰りに立寄りました
明治34年に買ったのね 住所一部消しました
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