間瀬銅山 関連文書等
国立科学博物館所有の2枚の絵図には下記のような記載があります
2枚の絵図の中心には黒い大きな焼釜が描かれています
越 越
野 後 野 後
積 國 積 國
村 三 村 三
鮫 嶋 鉢 嶋
銅 郡 前 郡
鮫 従 従 山 同 同 菜 同 同 鉢 従 従 銅
敷 間 野 繪 畑 前 麓 野 山
者 瀬 積 圖 敷 敷 村 積 繪
従 銅 村 者 者 至 村 圖
金 山 至 従 従 銅 至
場 至 銅 金 金 山 銅
直 鮫 山 場 場 半 山
登 高 径 銅 半 登 高 直 登 高 直 里 一
一 六 一 山 里 二 四 径 一 二 径 計 里
百 十 百 一 程 百 十 二 百 十 一 計
八 八 七 里 一 二 百 一 四 百
十 間 十 程 十 間 零 十 間 零
三 四 間 間 九 二 間 四 七
間 尺 二 寸 間 四 尺 間
三 四 尺 一 尺 五 二
尺 寸 七 尺 六 寸 寸
二 寸 八 寸 程
寸 寸
程 |
天文十一年(1542年)佐渡で 鶴子銀山が発見され慶長六年(1601年)には相川金山(佐渡金山)が発見された。
佐渡小木港からの金銀の荷揚げは良寛和尚の誕生の地、出雲崎(いずもざき)で幕府直轄領(御領)となり栄えてい
ました。海上から間瀬の背後にそびえる弥彦山の山相を見て何かを感じた山師がいたのかも知れません・・佐渡金山
の存在が間瀬銅山発見の遠因かもしれません。新潟県内のとある金山の発見は佐渡金山からの帰りの夜、船から山を
見たら不思議な光が出ていたのでその山を掘ったら金が出たという逸話も残っている位ですから。山相秘録風ですが
※中夜望気の法 ▼ は金鉱探しの定番だったのかもね、本物の山師が生きていた頃の話です。
元禄元年(1688年)新潟の人、大和田一郎平が採掘を始めたそうです、幕府より資金を調達し事業を拡
張し稼行人が三千人程に達したとの事、三千という数字がそのままの意味なのか、それともただ非常に大勢とい意味
なのかは不明ですがね。その後文政三年(1820年)柏崎の岩下佐兵衛が経営し明治年間迄。四代 岩下一族が引き継
ぐ事になったそうな。
ちなみに間瀬郷土史によると元禄十三年(1700年)の日付のある文書(もんじょ)が存在していて、江戸の人、
田辺善兵衛、清水八左ェ門が間瀬村深ヶ沢鍋割と野積村水あみ場という場所で、元禄十四年(1701年)から5年間だ
け採掘したのが始まりだとか。
その後も個人等で、細々と途切れ途切れでひっそりと採掘されていたようです。天保年間(1830〜1843年)には、
針屋源治エ門と大阪の人が、明治初年(1868年頃)には、石塚安平と佐渡の人が採掘していたりとか。
明治7年(1897年)、間瀬銅山は村民と柏崎の岩下道之丞が協議し、岩下が名義人となって間瀬真澤地内1720坪(官
有地)を借区として、政府に採掘許可を求めて本格的に操業をはじめた。参加者は20余戸で、鉱夫20名、手堀で
あった。村民は副業的に採掘に従事し、村の経済を潤したのであった。
この頃の経営方法は、製銅業を営む燕の玉橋兵八、寺泊の清水長五郎、山形太七らが、稼行区域をきめて、採掘にあ
たり、出銅高の10分の1を経営者(岩下)や村方に納めるという委託採掘方式をとっていた。
ところが、明治15年(1882年)12月、岩下は村民に無断で、新発田の大地主、白勢成煕に借区を譲渡してしま
ったところ、白勢は直接経営を始めて村民たちとの対立を深めていった。明治16年(1883年)4月25日、間瀬村
宮川伝四郎、赤川良作らは県に対し、新たに隣接地に銅の採掘の申請を出したが「日本坑法」に規定された隣接鉱区
の白勢の連署を得られず、色々あり同年10月27日却下されたが翌28日再請願、県の担当では埒があかずに明治
18年(1885年)3月27日、国の工部卿佐々木高行に請願書を提出したが・・・残念でした。
製銅業を営む燕の玉橋兵八らは、間瀬銅山から手を引いており、白勢の直接経営が確立した。と岩室村史にそのよう
なふうに記載がありますが。
この間 不明
明治15年に角神に製錬所が完成した草倉銅山の銅生産量が飛躍的に伸び、燕の町にも流通していた。そんな時代、
明治23年10月(1890年)間瀬銅山から玉橋兵八(間瀬屋)へ、銅1500匁(約5.6kg)と今後も是非買って欲しい
旨の手紙を出している。
1匁(もんめ)⇒3.75g 1斤(きん)⇒600g 1貫(かん)⇒3.75kg
間瀬銅山産の品質がいいというのは、草倉銅山産の製品に押されていた間瀬銅山側による情報操作だったという穿っ
た見方もできますね。
白勢成煕さんの次の経営者が吉田一策さん(小須戸の吉田様)という事ですかね。産量・産額ともピークだったよう
ですが cf.鉱区変遷 どうのような経緯(いきさつ)で、鉱業権者になったかは不明ですが。
続柄不明・・・
明治37年(1904年)11月1日より、新潟の白勢春三の手に鉱業権が移った。
郷土史には大正元年から大正4年(1912〜1915)までが、間瀬銅山の全盛期であったとある。間瀬集落から約四キロ離
れた、真川上流の間瀬銅山事務所周辺には、銅山関係者270名位が住む集落が形成されていた。年に一度6月13
日〜14日銅山祭りが盛況に催された。 荒銅の生産量と当時の銅価格の年平均額で計算した金額でみると、
明治30年〜33年頃が最盛期のようだけど・・
大正8年(1919年)末、鉱石の品位が低下し生産量も減少してきたおり、白勢氏と小黒所長が再三協議して閉山が決
定された。大正9年(1920年)2月22日で全作業の打ち切りとしたが。従業員が冬期に閉山するとは不届きと小黒
所長にせまった。再三の交渉の末、家族は5月頃まで従来通り銅山の作業(後始末)に、男は他鉱山に出稼ぎの斡旋
等、退職金も相当支給するということで落ち着いた。(銅価の下落等で、閉山を決断したのかも)cf.時代背景?へ
この頃、間瀬石という石材産業もあった、間瀬銅山付近にも石切り場跡が散在してますが、石材関係に残れた人もい
たのかも。多くの人は、ヤマを求めてこの地を去ったようです。
戦時中昭和18年頃、一時復活したそうですが終戦と共にまた、山には静寂が戻りました。
参考資料:間瀬郷土史、岩室村史
太刀川鉱山 | 明治期に最盛 大正6年(1917年)以降銅価の下落などで閉山 経営者 長岡市 鷲司その後、昭和18年(1943年)頃、加茂の落合氏経営により 1年位掘ったが年間5トン位で昭和19年10月頃やめた |
鉢前銅山(八前銅山) | 明治期に多少の産出もあったが、硫化鉱が多く質が劣る 滝の横から掘り進み坑内は水で作業困難。 2〜3人で採鉱。 大正7年(1918年)銅鉱がなくなり閉山。 |
赤滝銅山 | 間瀬集落から約2kmの場所、鮫ハゲ山地内 坑口は滝の横にあり精錬所もあった 明治35年、小須戸町の吉田一策の経営、明治末に閉山する 大正期に入り三宅組、安間氏が再開発。 大正5年(1916年)頃、閉山 |
郷土史に記載されている赤滝銅山とは、鉱区の変遷からは赤川良作さんが鉱区を所有しその後、坂井氏が採掘して
坂井鉱山(坂井銅山)と呼ばれ最後には白勢氏に、鉱業権が渡ったと思われるが、場所の根拠は2級河川のデータと
林道の名のみですけどね・・・ 郷土史では鉢前銅山(鉢前鉱山)は、間瀬銅山の支山と記載があるので白勢氏が
鉱業権を得たらしく、明治43年(1910年)の鉱区の坪数が増えていますから。(鉱区一覧等に拠る)
昔の新潟県地質図に記載されているのは、この付近では3個所:多宝鉱山、間瀬鉱山、八枚金山→八前銅山の事か
な?位置も近い。赤滝銅山の記載がないんです、尤も経営者が同じだから間瀬鉱山と一括りにされても仕方ないかな
なにしろ20万分1の地図じゃ位置は参考程度にしかならないんです、郷土史の地図も可也怪しいんです、鉢前銅山は
そんなところにはないよ・・・太刀川鉱山もそこじゃないよ・・・
郷土史の間瀬銅山界隈のヤマと地質図、鉱区で関連付けると
赤滝銅山 ⇒坂井鉱山(坂井銅山):確定
太刀川鉱山(太刀川藤十郎)⇒多寶鉱山(多宝鉱山):確定
鉢前銅山(八前銅山)⇒八枚金山:確定
彌彦鑛山(弥彦鉱山) →??郷土史に載っていない・・・明神沢立坑だと都合がいいんだけどね
混乱するからこれからは、鉱区一覧での名称で統一しようかな。弥彦山系には、多宝、坂井、弥彦、間瀬、鮫、そし
て鉢前など6個以上は鉱山があったようです。それぞれの大まかな位置関係は、下図のとおりです。今迄このページ
にあった、坂井鉱山関連は分離移動しました。 多宝山・・・名は体をあらわす? なんの事?
2007年5月 明治時代の資料に辿り着けました・・・上の地図の空白域にも鉱脈が存在したのね弥彦村の郷土史には記述がなかったけどね。多宝山は別名、十寶山とか石瀬山とか呼ばれていたのね。それと弥彦山の南の585.6mの山は
三足富士と呼ばれていたのね。多宝山(たほうざん)十寶山・十宝山(とたからやま)石瀬山(いしぜやま)
※中夜望気の法
5月〜8月の月の出ていない真夜中頃に山を眺める。金があれば金の精が光って見えるらしい!!寒い頃は、金の精の活動が鈍いとされており上記の期間限定らしいです。
金精(金の精)は通常八弁の花の形をと
るものが多いとされ、まれに金魂(かなだま)と呼ばれ飛翔するタイプもあるという、銀精は竜、銅精は虹、鉛精は煙、
更に錫は霧の如しと鉱種により色と形状が異なるそうです。
出現から途中の変化の様子迄、詳述されているのですがこれらは鉱物固有の「気」であり、今風に云えばオーラという事でしょうかね。