間瀬銅山跡
間瀬銅山、間瀬鉱山跡を見てきたよ!海岸から 近いほうだね。 間瀬鑛山。
元禄元年(1688年)新潟の人、大和田一郎平が採掘を始めたそうです、幕府より資金を調達し稼行人が三千人程に
達したとの事、三千という数字がそのままの意味なのか、それともただ非常に大勢とい意味なのかは不明ですがね。
ちなみに間瀬郷土史によると元禄十三年(1700年)の日付のある文書(もんじょ)が存在していて、
江戸の人、田辺善兵衛、清水八左ェ門が間瀬村深ヶ沢鍋割と野積村水あみ場という場所で、元禄十四年(1701年)か
ら5年間だけ採掘したのが始まりと記載されております。5年間で終わったのは、郷土史の推察によると、脈が細か
ったのと上納金が高すぎた為ではないかと言ってますね。
さておいてと、銅の存在はそれ以前から、知られていたのかもしれないね♪ かなり広い範囲に存在して
いたのかな?
国立科学博物館所有の絵図には野積村鉢前銅山絵図と野積村鮫銅山絵図の2枚があるよ〜そこには従間瀬銅山至鮫銅
山一里程と記載されているから当時も間瀬銅山とは明確に区別していたようですね(^^) 村も違うし
ね・・・ 昔の絵図ですね。
間瀬銅山というの現代風にいえば一種のブランド名のようなもの、間瀬銅山と名乗れるのは一箇所のみ。昔は、鉱山
の所在地の地名を冠するのが多く、間瀬銅山とはここのみですが、間瀬地域は間瀬坂井、間瀬宮川とか所有者の名を
付けて区別。買鉱してここで製錬すれば間瀬銅山産になるのでしょうけどね。
元禄の時代から、色々な人の関わりを経て採掘されてきましたが。ついに、時至り大正9年(1920年)2月22日
閉山、でも冬季閉山は困るとのことで翌年5月まで、後片付けとか仕事があり残れたそうです。この頃、間瀬石とい
う石材産業もあった、間瀬銅山付近にも石切り場跡が散在してますが、石材関係に残れた人もいたのかも。多くの人
は、ヤマを求めてこの地を去ったようです。
戦時中昭和18年頃、一時復活したそうですが終戦と共にまた、山には静寂が戻りました。
伊夜日子 信仰の常夜燈 盗まれて? 今はない・・・
林 皆次郎さんのお墓
不動明王?左側の破片を繋げたら岩室村史の
写真のようになりましたが元に戻しました
かわゆい滝♪
本当に ここは危険です!
狸掘り跡
見たままです
何故かここも天井が光る
銅山の集落跡には昔は、白衣の七浦観音が立っていて公園のように整備されていたのに・・・・今は、公園の跡形も
ないです。しかも、観音様はいつのまにか海岸の方に行ってしまいました・・・色が・材質が違うし。それと
砂防ダムの所迄車で行けたのに、今じゃ想像すら出来ないでしょうね・・・
間瀬銅山からは和田維四郎標本の、犬牙状方解石や高壮吉標本の木蛋白石ウッドパールなども産出したのでした。
もっとも、沸石の方で有名ですね場所は相当 離れているけどね〜☆国定公園だから沸石は、本当は採取できないの
では? 平気で掲載している人がいますがいいのかな〜?いまでも精錬所跡や海岸にはカラミが落ちていま〜す。
明神沢立坑は滝の上の高い地点にあるよ、登山する人は知っているよ。中は、入ると右に深く入りこんでいます、下
が見えないよ〜(^^) 殆どの坑口は、人間は立入禁止で〜す! ネズミは関係ないや^^
1975年
精錬所付近の見取図
地質 | 鉱石品位 | 産量 |
第三紀中新世(寺泊層下部)の粗粒玄武岩を貫 く閃緑ひん岩中に胚胎する鉱脈 |
黄銅鉱・黄鉄鉱 閃亜鉛鉱・方鉛鉱 Cu 4%(1944年) |
1944 昭和19年 粗鉱量295t 1918 大正7年 銅 9t 1917 大正6年 銅 17t 1916 大正5年 銅 20t 1915 大正4年 銅 15t 1912 大正元年 銅 25t 1911 明治44年 銅 40t |
間瀬石
玄武岩および凝灰角礫岩、切り出された場所により沸石を含むものも多い。耐火性が強くかまど石、こんろ
等の使用に適していた、その他に井戸枠、水がめ、けし壷、建築材料としては石垣、土台用にと広く利用された。水
まわり用、火まわり用と用途に適した材質を用いたり石目をうまく生かしていたようです。
明治2年に造られた新潟税関の倉庫は間瀬石を使用していたそうです。最盛期の石工は百人近いと伝えられている、
間瀬港から石積船で後には鉄道等で広く出荷された、大正後期になるとセメントの普及により建築材料としての需要
が次第に減り、かまど用として昭和20年代まで細々と生産されていたそうです。
伊夜日子
弥彦 鉱業、石油関係にも信仰されていたようです。( ̄ー ̄)ニヤリ
「弥彦神社」と言えば、明治45年(1912年)3月の弥彦大火で、神社も焼失したりしていてね。
弥彦神社初詣客圧死事故 昭和31年(1956年)1月1日午前0時20分頃弥彦神社で
初詣の参拝者約5000人に「福もち」をまきはじめた所、「福もち」の奪い合いで大混乱となり。
将棋倒で124人が圧死、94人が重軽傷を負った。今も幽霊の噂が絶えない?
心霊スポット?の神社・・・?
越後七浦観音像ミニ年表
昭和45年:1970年 | 4月18日(土)弥彦山スカイライン開通式(県内初の有料道路)約 2,700台が通過。 だいろ坂に、ドライブイン岩室 も同時にオープン(岩室ドライブイン) |
昭和46年:1971年 | 3月16日観音像建立奉賛会結成 間瀬銅山跡に建立予定 |
昭和46年:1971年 | 5月 巾員4m、約1kmの観音道路完成(27名から用地提供あり) |
昭和46年:1971年 | 8月20日 午後1時30分 越後七浦観音像(石膏と合成樹脂製)開眼式、早川亜美 作 約300名が参加、シーサイドラインは未開通 海雲寺下から徒歩30分位かかった |
昭和47年:1972年 | 室蘭の本間源之亟さん(間瀬出身者のご子孫)が船頭観音像を寄贈、建立 |
昭和49年:1974年 | 6月1日 シーサイドライン間瀬−野積間 開通(有料道路 夜間は無料でした) |
昭和49年:1974年 | 9月 吉田町盆友会 有志が、五葉松、つつじ、槇柏等を記念植樹 |
昭和50年:1975年 | 7月15日 シーサイドライン全線開通(有料道路 夜間は無料でした) |
昭和51年:1976年 | 聖地公園(越後七浦観音像のある場所)元旦詣は千人以上 |
昭和51年:1976年 | 4月4日 本間源之亟さんの寄贈で地元有志が八重桜、染井吉野等約120本植樹 |
昭和55年:1980年 | 製作者 早川亜美 逝去 |
昭和56年:1981年 | ドライブイン岩室(岩室ドライブイン)解体・撤去 |
昭和57年:1982年 | 12月 越後七浦観音像 倒壊の恐れがあるため分解され上半身部分を台座下に安置 ※安置された観音像の上半身を見る |
お こ 折 こ と そ こ 厚 越 ご
願 と 角 と り の の く 後 参
い と 参 に あ 対 観 お 七 拝
申 存 拝 い え 策 音 礼 浦 の
上 じ 下 た づ に 像 申 観 皆
げ ま さ し 台 つ は 上 音 様
ま す る ま 座 い 長 げ に へ
す が 皆 し よ て い ま ご
`様 た り 苦 間 す 参
ご に お 慮 に 拝
昭 了 申 ろ し お い
越 和 承 訳 し て 像 た
後 五 下 け て ま の だ
七 十 さ な 安 い 損 き
浦 七 る い 置 り 傷 ま
観 年 よ す ま が し
音 十 う る し ひ た
奉 二 た ど こ
賛 月 が く と
会 吉
日 |
昭和59年:1984年 | 8月17日 越後七浦観音再建奉賛会設立準備委員会を設立 再建の寄付金が 予想以上に集まった為、石像ではなくブロンズ像にする事に |
昭和60年:1985年 | 2月 越後七浦観音像をブロンズ化の為 高岡市の梶原鋳造所に製作依頼 初代 越後七浦観音像から型を取ったので、大きさ形は殆ど同じです |
昭和60年:1985年 | 9月30日 現在の場所で開眼 |