大清水付近

 大清水銅山跡を目指しましたが予定より1時間遅れていました、 尾根コースは途中から道の痕跡が不明に・・・ スゲ?の尾根を過ぎて 817ピーク付近から藪でした行きはいいけど帰りは押し返されそうです。 817ピークの南東300m付近の830m高地迄くると道の気配が分かりませんでした。 3時間半で日倉山まではあと400mです藪が少しきついし残雪があって少し開けていたので、コーヒーを淹れて遅い朝食。 向かいの840m高地の残雪の斜面にニホンカモシカさんが来たので、音楽にて交流を試み暫くはこちらを見て佇んでいたけど、 やがてゆっくりと去って行きました。長く休み過ぎていました・・・ここから日倉山迄の道なんて薄い気配しか感じられないです。 残雪があったので、840m高地は歩き易かったです。って登り始めてから4時間半で漸く日倉山843.7mの頂です。
日倉山の標柱が少し傾いていたので板を差し込んで直してみました。高石コースは残雪の下、山頂は少し北に 10m位戻るのかな? 本日の帰還開始時間は13時を想定しております。10時30分過ぎに日倉山を後に行ける所迄行きます。この先は殆どへつり道と呼ばれるような所が多いです。 日倉山から奥に続く道は、手入れをされているようですが、斜めで歩き難いところが多いです、南側に傾斜している最後の方のへつり道はとくに酷いです。
江戸時代は牛や馬を使って、物資の輸送を行っていたかと思ったけど・・・この道じゃ無理なようです人が背負うしかないです。 もっとも昔はしっかりした道だったのかも。手元にある、大正初期の地形図にも大清水銅山には高石からの道しか掲載されていないんですが、 田川内側から金ヶ谷沿いに道があったのかもね・・・金ヶ谷の名前の由来も気になるし金ヶ谷鉱山跡も行きたいなヤツらが活動を始めるまえに。 江戸時代村松藩だった頃は、村松側からしか行けなかった筈。大清水銅山時代なら持倉側からも行けたのかもね。 大清水沢が見えるところに着いたのが12時15分頃です・・そこが大清水沢かどうかは不明ですが沢には残雪があって良く分からないや。 これから、探すと暗い山道を歩いて帰らなきゃいけないので止めました・・・ アルゴスの雪崩データベースで大正4(1915年)雪崩で36名死亡とあったしね、剣呑さ。 一時期掲載していた雪崩の詳細位置情報:世界測地系のデータの示す地点はなんと川内小学校付近だったけどね(画期的な試みでしたが)。 無謀と勇気は違うしと言い訳を考えながら帰路を辿ったんです、行きも帰りも逆光で遠くに光る日本海が印象的で日没の少し後に車に着きました。 以上、山行の報告でした。
※大清水銅山跡へ辿り着いたのは、コチラから♪

朝♪
無事に戻ってこれますように・・・

弥彦と角田も見えたよ
振り返れば・・・

誰が運んだの?
傾いていたので板を差込ました

無事カエルの土台部分?
日倉山頂 謎の円形の石 なんですか?

残雪
登山ルート 高石への標識 朽ちそうな木製のもありました

そろそろ帰らないと・・・
大清水沢ですか?

次回はありますか?
それとも この付近ですか?

帰路
寺泊の海が光っていました