大清水銅山・大清水鉱山跡

 旧・村松町=現・五泉市の大清水銅山、大清水鉱山跡を見てきました、 新ルート?で行ったら6時間程かかりました藪の中で3時間位は、もがいていたんですけどね。 現在の地図だと金ヶ谷と呼ばれている上流にある訳ですが、 昔は霧ヶ谷という名称らしくて郷土史にもそんな名称の鉱山が、 そんな予見を持って天保国絵図を見ると、きり谷鉱山?と描いてあったりしてね・・・
大清水銅山附近の鉱脈は郷土史によると文政年間(1818〜1829年)地元川内(かわち)の山田清作さんが発見し1868年迄稼行されていたとか、 明治11〜13年(1878〜1880年)に亘り三年間試掘の結果採鉱量二千五百貫匁に及んだけれども資本その他の関係に依り試掘だけで終わったそうです。 その後明治40年(1907年)山田又司の所有となり翌年の9月より銅鉱の精錬を開始したとあるそうな。 1908〜1915年、精鉱 3,100t。物資の運搬は牛馬が使えず人背とありますね。広域調査の記述によると、石灰岩との接触鉱床の2鉱床群があるそうですが、良く探していませんけどね。
それにしてもどうやってあの場所に、建物や製錬施設迄つくったものかと感心致しました。 ただ大正4年(1915)2月22日、夜の12時頃の悲劇・・・35名は就寝中の状態で、一人の婆さまは逃げ出そうとした格好のまま雪崩で36名の方が亡くなられたそうです。 当時、飯場に何名いたか迄は不明ですが、この悲劇が原因で休山になったようです。(-人-)ナムナム  そして誰がこの惨事に気付いたのか? 持倉鉱山本山のヒト? 生存者がいたとして何処へ救いを求めたのか?持倉鉱山本山が近いけどね・・・
大清水銅山に着く前の、杉が自生している附近に且って人が暮らしていたような気配を感じるのは、気のせいかな?
大清水鉱山の支山として、日本平山の南方に紫蕨(ぜんまい)鉱山があったそうですよ、 明治41年、(1908年)5月より銅鉱を採掘し同年9月より製錬を開始してけど大正2年(1913年)に休山したとのことです。 大正時代の地形図には現・阿賀町の鍵取からの道が日本平山経由で大清水銅山−日倉山−高石迄繋がっているしね。 紫蕨(ぜんまい)鉱山の方が日本平鉱山へ行くよりは近いようです・・・
※大清水銅山跡迄辿り着けなかった記録は、コチラから

今は昔・・・
在りし日の 大清水銅山

テラス
中段のテラス

テラスが三段♪
一番下のテラス♪

坑口跡?
中段のテラス 坑口跡? 水が出ています

石垣
それぞれのテラスには石垣

石垣
正面から石垣の図

カラミ♪
カラミ

カラミとヘビノネゴザ
掘ったわけじゃないです 自然崩壊です

水源を確かめる気力がないです
大清水沢? テラスの南側

坑口という事にしておこう
坑口? 確かめる体力が・・・

単なる憶測です
江戸時代の坑口跡? 水源状態♪

大清水銅山の坑口♪
大正時代の坑口かな



参考資料
  ・中蒲原郡誌
  ・アルゴス雪崩DB
  ・昭和53年度 広域調査報告書 蒲原地域:1979 p85
  ・その他
  ・cf.文書置場