米山の洞門?
明治時代の資料を眺めていたらトンネルらしいものが描いてあったけど、 手元にある割と精細な地図にはそれが掲載されていなかったのが気になっていたし、 その周辺の見取り図が掲載されていた別の本には、洞門・米山の洞門とあったので、 崩壊したのか埋め戻されていたのかを確認に行きました。 場所は昔は石油で栄え、最近一時期、佐渡で放鳥した中国種のトキ一羽が暫く居た新潟市秋葉区の里山です。
これですか
大分崩壊したの?
中は乾いていそうです
何のパイプ?
天井が川底のような砂利
出口の光が小さく見えます
天井部分が崩落しています
天井に小さい便所コオロギの仲間
天井部分から白い柔らかな結晶が析出しています
こちらの天井も崩落ですか
壁面 綺麗な模様の砂岩層
もうすぐ出口 意外と近かったのね
振り返って見るの図
ここには高谷(こうだに)という石油採掘の為に生まれた部落があり隣の塩谷(しおだに)部落へ物資の運搬等の必要が生じて掘られたのでしょうね、
明治時代の事のようですね。油樽を背負ったり荷車で輸送していた時代・・・
二箇所で崩落していて反対側の光が小さく見えたけど長さは20〜30m位でしょうかね、
送油管の普及が進んでいない時代ですね。高谷にはテニスコート迄あったみたいですが。塩谷と云っても現存する集落の奥にあった方ですけどね。
三人衆墓は検索した結果等と碑の裏側に刻んである文字から総合し要約すると・・
・江戸時代に、三年続けて新発田藩領の竹が無断で切られるという事があり、三人の虚無僧が尺八を作る為、
新発田藩領の竹林に入ったところ、地元の人々に酷い殺され方をし、死ぬ間際に呪いの言葉を吐いたという伝承があったそうです(隣の藩の侍に殺されたとか諸説あり)虚無僧=隠密?
そして大正元年に、地元のかた三人が、石油採掘の仕事中ガス爆発で亡くなるという事故が起こり誰云う事なく、
三人の虚無僧の怨念・祟りではないかと人々が動揺していたような中、この地で操業していた東北石油組合の金沢出身の事務長の笠松儀衛というかたが、
三人の虚無僧の供養の為に大正元年12月に建立した供養碑との事。勿論、事故で亡くなった地元のかた三人の供養という事もあったのでしょう。(
東北石油組合の従業員だったのではと想像致します)
それでも地元では、まだ祟りを恐れたのか三人の虚無僧の魂を?塩谷の諏訪神社横に三高神社として祀ってあるそうです。
附近には未だ危険な落とし穴が多く残っていたりしてね、剣呑です。石油が目的の手掘り井戸です。伊夜日子様跡附近は特に四角いのが、未ださりげなく多く残っているので怖いです。
『古井戸に注意して』 (※広報にいつ1974年5月15日発行 274号 pdf版より 抜粋)
新津市は、かって全国に名の知れた「油田地帯」このため、秋葉山系につづく草水・熊択公園・金津地区
周辺には、いたるところに石油を汲みあげた「手掘り井戸」の跡が、そのまま残っています。
「この周辺は古井戸があります。立ち入らないでください」と注意板をたてました。表示のある周辺には
ぜったいに入らないよう、また遊歩道やサクを越えないようご協力ください。
①石油神 伊夜日子大神
②明治二十二年 塩谷建立
③??石油 日本石油 帝国石油 箱岩鉱業所
④昭和三十三年蒲ケ沢へ遷宮
cf.伊夜日子 跡の標柱へ
危険だらけ
危険だらけ
明治二年頃より小須戸町字鎌倉及同天ヶ澤に手掘井を施行せり
同七年頃より金津に手堀ロ数を増加し、更に金津村椿谷に手堀井を施行せり
同八年及十年の交より民間に原油燈用として需要漸く増加すると共に金津村朝日坪ヶ入及同村塩谷に手堀施行者の口数を漸次に増加し
所謂下稼の手堀流行せり、又津島村に手堀井をせしものあり同十三年金津村高谷に於て手堀井稼行に著手せり、同年以降に塩谷及高谷に口数追年増加せり
同十四年小須戸町矢代田に手堀数ロを施行したるものあり、成功を得たるもの少なし
同十八年の交より新関村小ロに手堀井稼行を起せり
同十七、八年交に 燈油として四近の地に需要漸く増加すると共に、姑息の製油法を営むものの数を増加せり、
偶明治十九年六月従来の姑息共同手堀井稼行方に関し、日本坑法に抵触する所あるを以て従来の借区権を没収し、
稼行を停止せしめたることありて新津油田附近に於ける手堀井油業は為に一頓挫を来せり
(大日本帝國油田第四區地質及地形圖説明書 1905 明治38年 p28)
剣呑 剣呑
・大日本帝國油田第四區地質及地形圖説明書:1905 明治38年 p28 p31等
・「広報にいつ」:1976 昭和51年2月15日発行 316号 p9 pdf版
・新津油田:1976 p64-65
・新津市誌:1979 p190-191
・金津の里あれこれ 第五集
・その他