草倉銅山跡


 草倉銅山跡をみてきたよ〜(^^) 草倉鉱山、草倉鑛山ともいった。資料による元文四年:1739年4月、 茂左門、佐四郎、金八郎の3人が草倉の三角沢で鉱脈を発見したのが始まりと云う。 その次は鹿瀬村日下儀兵衛及び息子の傅兵衛が安永より文化年度まで、 続いて会津藩の管理下となり文化十年頃より嘉永五年頃(1813〜1852年)には坑夫300人が働く程隆盛を極めていたそうですが、 その後衰退し漸く慶應元年(1865年)に慶應坑を開坑し産量が増えたのに、戊辰戦争の巻添えを食って建物等が焼失したそうな。
明治8年:1875年8月8日明治政府の借地人、平田治八郎さんと売買契約を古河市兵衛さんの代理人の木村長七さんが結んだらしいよ。 古河さんは養子になる前の苗字は木村さんだよ♪幼名は巳之助と呼ばれていましたとさ。
草倉銅山はそれぞれ個別操業していた草倉銅山、舟打沢銅山(舟内沢)、滑瀧銅山(品ヶ谷銅山を含む?)、大川端銅山(大川前)を一纏めにしたという事みたい、後に東山鉱山を加えたという事で。
明治14年からダイナマイトの使用を始め。明治15年:1882年に角神に製錬所が出来るまで石垣の残る本山で製錬していたそうです。 角神で精錬された銅は、舟で川を下り新潟港から汽船で東京に運ばれたり、会津若松や燕町(現燕市)に出荷されていたそうです。
明治41年:1908年銅価の暴落で902人いた鉱夫を664人迄減らしたけど燃料の重油は倍近く高騰したりしてね。
明治44年(1911年)の資料には、事業を縮小したる鉱山に草倉鉱山の名が。大正元年:1912年には製錬も一時期中止されたみたいですが大正2年も製錬していたようです。 金属鉱山研究77号には、大正元年に出張所となるとの記載がありましたが。大正2年:1913年8月洪水で、大川前第一選鉱場が流失、精錬所の被災状況は不明。 産量の減少に洪水での被災、閉山の影が・・・次第に多くの人は足尾銅山へと移動したようだね♪その後も大正4年迄の製錬銅産量の記録がありますが、日光精錬所に送致し精錬する事とせりですか。
大正5年:1916年には主に舟内沢で採掘をしていたそうです、閉山間近では東山鉱山が有望とされたそうですが、大正のバブル景気が弾けた頃、大正9年:1920年に閉山となりました。 cf.時代背景?へ
標識のあるところからはいりますよ。すぐ右に広場?大きな杉が・・その先に行くとだいぶ枯れたけどさ桜の木を記念樹として植えたあとが・・・ 10年はたったかな?右手に下る?東に行くと?石垣があるよ〜さらに橋を渡ると坑口が! 戻って坂を登ると両側にお墓が、 こわいよ〜 お墓の写真はないよ(^^; なんかうつっているとこわいからね・・・また小橋?左手にズリが・・・登ったよん(^^)此処が伝説の三角沢♪ 最近はお墓の付近、下草を刈ったみたい倒れた墓石はそのままですが・・・あの謎の石積み2箇所は 荼毘に使用したのかな? 土葬じゃなく火葬だよね・・・釜焼きの跡かな?
※大正2年(1913年) 8月22日に発生した台風は東北を縦断し太平洋側にも甚大な被害を齎した 8月27日から28日にかけて 福島県や阿賀野川上流に豪雨が降り続き大洪水が発生、横越町木津、五泉市論瀬・高山・一本杉、京ヶ瀬村粕島・下里など、 多くの場所で堤防が壊れた。通称「木津切れ」28日に木津地先が113間(約205m)にわたって破堤し、亀田郷の大部分が水浸しになったという。

昔の案内板へ
ここから行くよ♪ 出発〜(^^)

広場へ
見えないけど右に大きな杉!

神社跡
神社跡へ続く道だ 灯篭?と ちょうず鉢があったよ

石垣♪
石垣だ〜!

ヘビノネゴザ・・・
通称カナヤマシダが似合うね! 本当の名前?
ヘビノネゴザ・・・ヘビ?! キャ〜! 天敵!!!

※ここでカナヤマシダについて解説しよう!
タイムボカンシリーズのナレーション?
銅は植物の生育には必要! でも銅が多い所では植物が 生育できない・・・それか生育不良になるよ でも そんな環境でも 立派に育つ けなげなシダです! 足尾銅山にも生えているよ 体の中は分析すると・・・ 銅がいっぱい存在するんだんよ(鉱山附近の個体の場合) 昔はこれを目印として鉱石を探したから 通称カナヤマシダと言われたらしいよ 銅山跡等には良く生えているけど、生えているからといってさ〜 その附近に銅なんかがあるとは限らないけどね(^^)♪ ふ〜ん・・・トリビアの泉? へぇ〜♪


草倉銅山 石垣の東 草倉沢横の本口坑
草倉銅山 草倉沢の本口坑
わ〜い! 坑口だ! 中は土だらけ・・

本口坑内部のようす
太い柱! 明治のままかな?

三角沢附近にて
ズリ! 明治の? 上に登るよ♪

小さいよ☆
壁面・・・

秋もキレイです
上からみた風景 建物も見えたよ
赤崎荘かな(^^)泊まられるよ♪

慶應坑附近かな
おりて 先に進んだよ林を抜けるとまたズリ
途中のあの二つ・・・荼毘用のかな・・・

慶應坑附近かな
ここは、石垣みたいだね(^^)

大正時代のものかな?
さびたワイヤー いつの時代??ナニ??
?なんかいるよ〜 熊? 帰り道は遠いよ〜!

中央左は神社の杜
今は石垣しかないけど・・・昔は・・・

右下が草倉沢
東側に川? 草倉沢ですね♪

選鉱場
不動滝の下流にあった選鉱場

製錬所
角神にあった製錬所

船の帰りはどうやって・・・
物流の中心は船の時代でした
帆かけ船で新潟の港へ行ったよん

人が少ないような・・・
大正が近づく頃の祭り?の様子
喜びがそこに あったんだよね〜

ダム
このダムのむこうに精錬所があったよん♪

 

諸国巡回諸鑛山略図 壱へのリンクだよん 九州大学Digital Archivesの鉱山史料の絵図だよ〜
高壮吉鉱物標本Web 展示 も素敵ですが ここもいいな〜♪