持倉鉱山 関連記事


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▼持倉鑛山製煉所   ▼時代背景?等   ▼鉱区・産出量等   ▼持倉鉱山 時系列   ▼旧砂防ダムの銘板

持倉鉱山 関連記事より※亜鉛電気精錬㈱ は分離・独立しました♪  
持倉鉱山 事務所♪
事務所 大正初期の頃だってさ〜♪

持倉鉱山 精錬所♪ 初期の頃の煙突♪
初期の頃の精錬所・煙突と煙道が・・・

持倉鉱山 精錬所♪ 煙道付き煙突は二基
精錬所 カラミ煉瓦じゃないみたい

持倉鉱山 精錬所♪ 大きな煙道付き煙突は健在
精錬所 少し後の時代 アーチ状の窓かな?

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持倉鑛山製煉所
 明治卅九年現鑛業人ノ所有スル處トナリ爾來探鑛ノ結果鑛脈擴大ニシテ稀有ノ良山ナルヲ確メ交通運輸ニ 便スルタメ數千金ヲ投シ五十島及ビ製煉塲間一里餘ニ亘ル道路ヲ修築シ車馬ノ來往ヲ自由ナラシムルト共 ニ着々事業ヲ擴張シ目下百五十馬力ノ電力ヲ發生シ探鑛採掘法ノ如キモダイヤモンド試錐機並ニライナー 八番型鑿岩機ヲ以テ工程ノ進捗ヲ計ル等専ラ機械力ヲ鷹用シ本山製煉間二十七町ニハバリジン式自動鐵索 ヲ以テ鑛石及物資ヲ運搬ス 製煉設備ハ水胴式溶鑛炉一基眞吹炉四座ヲ有シ 日々原鑛一萬貫匁ヲ處理シ 製銅年産額五十七萬斤アリ而シテ燃料トシテ原油等ノ液体ヲ使用セルハ斯界ニ特色ヲ有シ最モ誇トスル處 ナリト云フ
大正初期の出版物によると、明治39年に小出さんが鉱区を取得し探鉱したら莫大な埋蔵量のスゴイ山と 分かったので精錬所と五十島間の道路を整備をして削岩機や架空索道を導入した、燃料は原油を使ってい たとか・・・
 ※バリジン式自動鐵索⇒ Hallidie ハリジー式? cf.「架空索道運搬法」1908年 p.4


 採鉱及び選鉱に就いては従来と変化なし採鉱場より精錬所迄の鉱石運搬は従来は、人背を頼みしか明治 41年2月自動鉄索を完成したるを以って以来専ら之れにより鉄索は径五分(鋼鉄線七本もの六本より合 成)にて其の往復延長14,328尺あり十貫目入木製「バケット」138個を附す一日約五回転を為す製錬は 従来大字五十島阿賀野川沿岸に於いて焼鉱と共に山下吹を採用せしが明治41年3月此処を距てる約一里 半字三ッ石五十島川沿岸に「ピルツ」式円形水筒高炉一座真吹床三座を新設し生鉱製錬を開始せり而して 高炉より得たる粗ハは熔解せる儘真吹床に装入し粗銅を得、高炉は径(羽口水準)三尺五寸(羽口水準よ り装入口迄)十一尺八寸羽口の径三寸四分、羽口数十本、真吹床は径二尺五寸、深さ一尺二寸なり高炉の 装入は精鉱高炉゚、真吹゚、石灰石、骸炭にして熔解順調なるときは一昼夜精鉱三千貫目を熔解す、精鉱 の品位は含銅約7%にして品位約30%の粗ハを得、粗ハは約七百貫目を真吹床に装入し30時間にて粗銅と なる送風機は「ルーツ」式四番形一座を使用し其の原動機は径四尺の「ベルトン」水車一座なり水の落差 八十九尺とす

明治44年の「本邦鉱業一斑」の一部を読み易く書くと・・・
沿革は詳ならざるも古老の伝える所によれば、今を去る200年前時の藩侯奉行を派し稼行せるものの由 至る所に旧坑を存し字十五釜および金床尻等の如き有価の鉱滓無盡に堆積しあるを以って昔時如何に盛大 なりしかを想見するに足るあり。
今からだと、300年前の江戸時代から採掘、製錬していたから、既に当時では旧坑はあるしカラミも山 程あったので昔は繁栄していたんだなと想像できたとな。川の左岸の精錬所がカラミ煉瓦で出来ていると いうことは、別な場所で釜を造って煉瓦を作り精錬所を新設したの?ただ木造の外材を徐々にカラミ煉瓦 に替えっていったのかな・・・生産量が増大し大量に生じるカラミの処理には、一挙両得だったわけかな それにしても設計者がスゴイやアーチ構造もスゴイ! 十五釜および金床尻等の場所も気になるんだけど

坑内より選鉱場まで軌道に依り搬出す 選鉱場より鉄索起点まで約160間は人力運搬にして鉄索は固定単線 式自動にて容器130個を附着し、1時間2000貫の運搬力にて精錬所まで着す
 ※鉄索6000尺≒1.8km 160間=290m 1尺=30.3cm 1貫=3.75kg 1間=1.818m 丁 i.e. 町=109m

時代背景?  銅相場等
なにゆえ持倉鉱山が大正9年(1920年)で閉山したか気になっていたのですが、以下の文章から当時の 時代背景を垣間見られる気がしますが。結局、鉱脈が尽きたのでしょうか・・・
第1次世界大戦(大正3:1914年7月〜大正7:1918年11月)が、現代風にいえばバブル景気をもたら していたが、停戦すると軍縮による物余り状態にバブル景気が弾けた状況。銅も例外じゃなく、安い外銅 の問題もあったでしょうね。 やがて時代は大正9年(1920年)の「戦後恐慌」や大正12年(1923年)の 関東大震災による「震災恐慌」へと向かって行ったのでした。

神戸大学付属図書館Web ページより昔の新聞を掲載
    神戸新聞 1919.9.19(大正8)
銅価の暴落は生産費以下となりしを以て銅山中約四割乃至四割五分の自然的採掘中止を見更に精錬操業短 縮となりたる・・・
    時事新報 1920.6.8(大正9)
近年支那を始め印度英仏露等に対する輸出激減せるに反し昨春来我銅価暴騰当時米濠両国に向って買付た る輸入銅並に其後の輸入成約銅は巨額に達し銅輸出国は一転して輸入国となるの変態を来せり
    時事新報 1920.6.8(大正9)
近時物価は稍低落を示せりと雖も労銀其他諸経費は増嵩せるのみにて其生産費は一流所にても百斤五十五 円乃至六十円を降らず其他小銅山に於ては優に六十円を超え之が経営頗る困難に陥りたるより或は操業の 休止又は短縮を実行するの已むなきに至りし所本年に入ても亦少からず
銅の生産の必要経費が百斤(60kg)につき大手でも55〜60円かかった、小規模の鉱山では60円よ りも多くかかったらしく銅山の40〜45%が閉山もしくはそれに近い状況になったて事かな? 当時の 銅相場は下記の表のようでした。それに加え、銅輸出国から輸入国へと変わろうとしていた時期だったの かも・・・


銅の輸入量  (単位トン)
年号 西暦 生産 消費 年末滞銅 輸入 輸出
大正6年 1917年 57,900t 33,700t 2,200t 4,000t 26,000t
大正7年 1918年 95,400t 64,300t 2,200t 1,000t 26,800t
大正8年 1919年 82,000t 65,600t 26,800t 27,500t 19,100t

銅の輸入出量  (単位トン) 大阪時事新報 1922.3.23(大正11)
年号 西暦 輸入 輸出
大正3年 1914年 43,305t
大正4年 1915年 324t 56,528t
大正5年 1916年 2,325t 57,397t
大正6年 1917年 14,081t 71,052t
大正7年 1918年 1,068t 31,553t
大正8年 1919年 27,570t 19,132t
大正9年 1920年 22,540t 5,156t
大正10年 1921年 12,799t 8,439t
銅の国内相場
大正7年(1918年)7月〜大正9年(1920年)5月
百斤(60kg=お米一俵分)あたり
鉱区・産出量等

持倉鉱山の産出量等は、日本鉱産誌の記載によると
明治41年〜大正4年(1908〜1915年)粗鉱105,000トン:型銅1,900トン


※明治45⇒明治45年1月1日 - 7月30日、大正元年7月30日 - 12月31日
年号 鉱山名 鉱種 鉱区(坪) 製品・型銅 トン数 金額 鉱業権者   
明治40:1907年 持倉鉱山 金,銀,銅 635,808 19,239斤 11.5 8,210円 小出淳太  
明治41:1908年 持倉鉱山 金,銀,銅 635,808 72,678斤 43.6 23,256円 小出淳太  
明治42:1909年 持倉鉱山 金,銀,銅 635,808 153,830斤 92.3 46,149円 小出淳太  
明治42:1909年 銅,亜鉛 234,888 不明 不明 不明 小出淳太  
明治43:1910年 持倉鉱山 金,銀,銅 635,808 194,132斤 116.5 58,240円 小出淳太  
明治43:1910年 銅,亜鉛 234,888 不明 不明 不明 小出淳太  
明治44:1911年 持倉鉱山 金,銀,銅 635,808 356,406斤 213.8 106,922円 小出淳太  
明治44:1911年 銅,亜鉛 234,888 不明 不明 不明 小出淳太  
明治45:1912年 持倉鉱山 金,銀,銅 635,808 576,963斤 346.2 233,670円 小出淳太  
明治45:1912年 銅,亜鉛 234,888 不明 不明 不明 小出淳太  
大正2:1913年 持倉鉱山 金,銀,銅 635,808 508,719斤 305.2 不明 小出淳太  
大正2:1913年 不明 不明 不明 亜鉛13,348斤 8.0 不明 亞鉛電氣精錬㈱  
大正3:1914年 持倉鉱山 金,銀,銅 635,808 601,597斤 361.0 不明 小出淳太  
大正3:1914年 不明 不明 不明 亜鉛50,624斤 30.2 不明 亞鉛電氣精錬㈱  
大正4:1915年 持倉鉱山 金,銀,銅 693,968 710,319斤 426.2 287,500円 小出淳太  
大正4:1915年 葎澤鉱山 銅,亜鉛 234,888 不明 不明 不明 亞鉛電氣精錬㈱  
大正5:1916年 持倉鉱山 金,銀,銅 693,968 914,915斤 548.9 494,100円 持倉鉱山合資会社  
大正5:1916年 葎澤鉱山 銅,亜鉛 234,888 亜鉛204,707斤 122.8 86,120円 亜鉛電気精錬㈱  
大正6:1917年 持倉鉱山 金,銀,銅 693,968 1,143,975斤 686.4 不明 持倉鉱山合資会社  
大正6:1917年 葎澤鉱山 銅,亜鉛 234,888 不明 不明 不明 持倉鉱山合資会社  
大正7:1918年 持倉鉱山 金,銀,銅 693,968 687,432斤 412.5 不明 小出鉱業株式会社  
大正7:1918年 葎澤鉱山 銅,亜鉛 234,888 不明 不明 不明 小出鉱業株式会社  
大正8:1919年 持倉鉱山 金,銀,銅 693,968 370,133斤 222.1 不明 小出鉱業株式会社  
大正8:1919年 葎澤鉱山 銅,亜鉛 234,888 不明 不明 不明 小出鉱業株式会社  
大正9:1920年 持倉鉱山 金,銀,銅 693,968 不明 不明 不明 三井鉱山株式会社  
大正9:1920年 葎澤鉱山 銅,亜鉛 234,888 不明 不明 不明 三井鉱山株式会社  
出典:特許採掘一覧、本邦鉱業一斑、鉱区一覧 etc
1匁(もんめ)⇒3.75g 1斤(きん)⇒600g 1貫(かん)⇒3.75kg

持倉鉱山 時系列

太陽の下、新しいものは何ひとつない。
鉱山に新しきものなし? 鉱脈尽きる迄 いにしえより途切れ途切れ連綿と続く?
諸々の資料によると

年号 西暦  
承応元年 1652年 村松藩領下田村の十郎右衛門が採掘したのが持倉銀山の始まり 5年間掘る
貞享2年 1686年 山三郷・小山茂兵衛 松峰加兵衛2名掘る 持倉銀山
元禄13年 1700年 五十嶋村・三太郎 谷沢村・作兵衛 願い出る 持倉銀山
享保元年 1716年 享保年間 ?
享保21年 1736年 享保年間 ?
宝暦13年 1763年 五十島銅山 出銅なしとの記述あり 銅山自体が既に存在しているが 稼行していない状態
嘉永3年 1850年 村方惣右衛門・加茂(七谷村か?)小柳喜助・餅倉沢銅山 餅倉沢銅山 山師小柳喜助 出銅439貫目余
明治2年 1869年 半田銀山役人・安藤政昭による「諸加彌山見聞調」には持倉銅山 一ヶ年出方 吹銅七百貫目位とあり
明治初期 1870年代? 諸国巡回諸鉱山略図 壱 にも絵図が掲載されている事より盛況振りが窺える
明治24年 1891年 東京帝国大学理科大学助教授? 吉田彦六郎さんの調査 サンプル分析の結果 硫砒鉄鉱が優勢との報告
明治24年 1891年 この時代 稼行されていないようです
     
     以下 『日本の鉱床総覧』 の記述
    享保年間に発見された 会津藩時代銅を採掘製錬 ※享保以前から採掘されていた
明治37年 1904年 新発田町の寺田助松が蛍石を目的に採掘中銅鉱床を発見 ※蛍石を目的?
明治39年 1906年 小出淳太が買収、1919年(大正8年)まで銅山として稼行
    この間の産出粗鉱21万トン(品位不明)他に掛居、水上の亜鉛鉱床も採掘
大正8年 1919年 三井が買収 掛居坑等を探鉱
大正9年 1920年 休山
昭和14年 1939年 探鉱開始
昭和17年 1942年 探鉱終了
昭和32年 1957年 坑内外試錐、坑道堀進による探鉱開始
昭和37年 1962年 ※探鉱終了と思われます


今はなき 砂防ダムの銘板

2000年 新しい砂防ダム工事中

立派なカラミ煉瓦の建物も、暗い坑内で命掛けで掘ってくれた名も知られない多くの人々がいたから作 る事が出来たんだよね、ここではどの道を歩いてどんな景色を眺めていたのかな・・・ 前の砂防ダムが竣工したのが昭和34年(1959年)新しい砂防ダムにかわったけどさ〜☆ 川床が年々 上昇して、砂防ダムの上流の道が崩壊して行くよ。鉱山が稼動していた頃は従業員総出で治水工事とか やっていたでしょから川が荒れる事もなかったでしょうね。砂防ダムを作ってもね、定期的に浚渫工事 して欲しいね (・ω・)ブゥ〜ブゥ〜

俯瞰

事務所と精錬所・・・

持倉鉱山 事務所跡 1960年代

持倉鉱山 製錬所跡 1960年代

昔 川床はとても低かったの???

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