持倉鉱山 跡(持倉銅山 跡)


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 この前 持倉鉱山の事務所跡を見てきたよ♪ 大正ロマン? すごいよ!道が崩れていてさ歩きだよ〜♪ 20世紀の後半近く迄は 事務所跡の裏側を通って 一番上流の砂防ダムまで車に忍びこんでいけたのにさ〜♪そこの河原にはさりげなく銅鉱が落ちていましたので、さりげなく拾って帰りましたが・・・
残っている建物は カラミ煉瓦で出来ているそうです。 カラミ石とも言うんだ へぇー へぇー 精錬後の残渣(カス)が、カラミ(主成分は鉄酸化物、硅酸)なんだってさ。カラミを型に流して出来たのがカラミ煉瓦ってことです。
江戸時代に銀山として開発され のちに銅が採掘されていたので 持倉銅山と呼んだ方がいいのかな? 宝暦13年(1763年)の資料に五十島銅山ってあるのはここかな?・・・ 持倉鉱山跡 大正9年に休山して以来、戦時中迄眠っていたんですが・・・  蛍石を掘っていたのは五十島鉱山で別な会社で年代も違し、場所も微妙に違うだけどね♪

持倉鉱山の事務所跡
山の中にひっそりと・・

持倉鉱山 事務所跡 大煙突側からの図
新潟の雪にもマケズたたずむ

持倉鉱山 事務所跡 新緑の頃
山菜のシーズン!川で泳ぐには早いよ♪

持倉鉱山 事務所跡内部
想像以上に大きくないかも♪

持倉鉱山事務所跡 奥の方
陽射しがやわらかいな〜♪
昼寝していこうかな♪

持倉鉱山 事務所跡


持倉鉱山 事務所跡
紫外線が・・・♪

持倉鉱山 事務所跡
旧道側から

持倉鉱山 事務所跡
旧道側から

持倉鉱山 事務所跡
初冬の頃

持倉鉱山 事務所跡
宿場澤(飯場澤)の大通洞坑付近を目指す?

江戸時代から掘られていたらしいよ、精錬所は大正2年頃・1913年頃には建っていたらしいよ 大正8年に三井鉱山に譲渡・翌年1920年閉山!
坑口は、ここから人間時間で2時間ほど歩くらしいよ♪途中に大通洞坑があるよ水浸し状態♪ ヤマビルが出るよ前さ〜8匹ほどついたけどさミックンは平気だよ(^o^)♪人間じゃないから平気だよ!

絶妙のバランスで豪雪にも耐えていた
在りし日 資材倉庫跡のアーチ

崩壊のさだめ・・・
ついに崩壊

アーチ構造は強かった・・・
在りし日の資材倉庫跡のアーチ

崩壊のさだめ・・・
いつかは崩れる

Bar森亜亭 持倉鉱山精錬所跡
勝手に不完全ながら再現しました。
ここからワープ♪

持倉の鉱山技師だった、芹川小三郎さんが昭和8年、 1933年2月23日の大阪毎日新聞 に兵庫県でのニッケル鉱発見の記事で、コメントしているから読んでね♪ 亜鉛電気製錬株式会社はここより五丁 駅寄りにあったのか・・・ 大正元年、1912年11月2日の東京朝日新聞に亜鉛電気製錬株式会社の記事あるよ〜♪ 電気製錬の特許をニューヨークの金持ちが買うとか、工場の完成を急ぐとかね・・・ そのときの技師長は宮沢治七郎さんと言う方だよ・第1次世界大戦前か・・・

亜鉛電気精錬梶@跡(サイト内移動)
神戸大学付属図書館Web ページへリンクしておりますよ〜☆
記事は下からね!お戻りはブラウザの戻りボタンでね(^^)
ニッケル鉱発見の記事へいくよ♪
亜鉛電気製錬株式会社の記事へいくよ♪


↓↓↓クリックすると 読み易くなるかもね♪
少し読み易く・・・♪
昔は、こんな看板があった♪ちゃんとお役所で作ってくれた☆
大正9年に閉山か・・・

日本の鉱床総覧によると、享保年間(1716〜1736年)暴れん坊将軍?の時代に発見されたとされておりますよ〜♪ もっとも郷土史によると承応元年(1652年)に持倉銀山で採掘を開始したという文書(もんじょ)があるそうです 江戸時代から既に銅の採掘が行われていたそうです、その名残が十五釜という場所です。 諸国巡回諸鑛山略図 壱は明治6年頃に書かれており、そこにも掲載されているけど・・・・・・・ 明治37年(1904年)に新発田町の寺田助松さんが蛍石を目的に採掘中銅鉱床を発見! とか
明治39年(1906年)1月、寺田助松さんほか1名で採掘許可を得て、その年の12月には、小出淳太さんが買収・ さらに明治42年(1909年)田中堅治氏より隣鉱区を買収したとか どの辺りか良く分からないな掛居、水上の亜鉛 鉱床も採掘とか?
 亜鉛電気製錬株式会社は何処にも記載がないな〜続きはこちらに・・・亜鉛電気精錬梶@跡へ
創業当初は物流の中心が川舟だった為等で、阿賀野川の近くで山下吹で製錬していそうですが、明治41年(1908年 )3月から今、建物が残る場所で真吹製錬を開始。この年の2月に採鉱場と新しい精錬所の間に鉄索(ハリジー式) 木製のバケットを138個装着が稼動。明治45年(1912年)五十島駅開業に備え精錬所との間の道路を改修し、大 通洞坑を開坑始める、同時に宿場澤(飯場澤)の川近くに発電所を建設開始。大正2年(1913年)に発電所が完成し 削岩機等に使用それでも電力が不足で大正5年(1916年)からは買電する事に。
 製錬には重油を燃料にしていたりしてねご自分で石油の井戸を持っていたそうですのでそれを、使用したのかもし れませんね。炉も可也工夫されていたようです。かなり特色のある経営をしていたらしいのですが♪酒造会社もお持ちのようですし  最盛期の従業員数は 730名位で、学校の分教所もあったようです。
※日本平鉱山日本平亜鉛鉱山、掛居・水上鉱床)も含むの?
※あの日本平鉱山とは違います。(採登601號の方)
 五十島駅が開業したのは、大正2年(1913年)6月1日、地元や鉱山側の陳情により実現、用地や民家の移転費用 の殆どは鉱山側が負担したそうです。
しかし大正9年に閉山。・・昔から蛍石が産出する地域なので、時を経て第二次世界大戦中の昭和17年に国策会社? の東北振興㈱が本格的に操業し、 戦後の昭和25年には五十島鉱業㈱が五十島鉱山として蛍石の採掘をはじめました、今でも持倉鉱山の大通洞 坑付近には架空索道のワイヤーが多数残っています、ワイヤーを追跡しようとしたけど足が短くて・ 昭和28年(1953年)には従業員さんが100人位いたそうですよ♪  また時が流れ昭和38年に閉山、廃止となりました。 地元の方の話では、持倉鉱山の事務所跡は五十島鉱業㈱が貯鉱場や事務所として使っていたそうです。
  日本の鉱床総覧の記載は下記のようになっています
  享保年間に発見された 会津藩時代銅を採掘製錬
  1904年(明治37年)寺田助松が蛍石を目的に採掘中銅鉱床を発見
  1906年(明治39年)小出鉱業㈱が買収、1919年(大正8年)まで銅山として稼行、
    この間の産出粗鉱21万トン(品位不明)他に掛居、水上の亜鉛鉱床も採掘
  1919年(大正8年)三井が買収 掛居坑等を探鉱
  1920年(大正9年)休山
  1939年(昭和14年)〜1942年(昭和17年)探鉱実施
  1957年(昭和32年)坑内外試錐、坑道堀進による探鉱開始


蛍石関連 大正3年(1914年)の資料には・・・ 螢石ハ大字五十島字持倉地内ヨリ出テ産出能力頗ル豊富ニシテ各種硝子原料トシテ中越及ヒ新潟地方ニ輸出セリ 地質図の解説書には、明治36年(1903年)に、発見されたことになっています。
持倉銅山で働いていた早川さんが地元のヒトに螢石を教え、それで採掘が継続的に始まったとも伝えられています。
大正5年(1916年)8月8日発行の和田維四郎著の日本鉱物誌(改訂2版)にも既に五十島産の蛍石は掲載済です。
  産出量  最大出鉱量 1,768t/年 CaF2 (1952年) 日本鉱産誌
  総出鉱量 16,399t CaF2 62〜72% (1941〜45、1949〜62) 地質調査研究報告Vol.56_05_01
産量等詳細は五十島鉱山跡を参照して下さい

宿場澤(飯場澤)の石灰岩
大通洞坑付近♪ 石灰岩^^

いつの時代のワイヤー?
ワイヤー! が木に・・・!

大通洞坑跡
大通洞坑♪ どのうが積んであるよ☆

支柱が鳥居みたい
中は・・くらいよ〜!水だらけ☆

この写真が大きくなるだけだよ^^☆
参考文献
  ・東蒲原郡案内:1914
  ・日本の鉱床総覧 上巻:1965
  ・越後の停車場:1981
  ・東蒲原郡史 資料編4 近世三:2007
  ・その他
持倉銅山 坑口さがすよ〜♪

Bar森亜亭 持倉鉱山精錬所跡
勝手に不完全ながら再現しました。
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