持倉鉱山 本山附近


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 持倉鉱山、本山の採鉱事務所跡附近を見てきました、大正バブルの弾けた後の戦後恐慌(第一次世界大 戦の事)の時代大正9年(1920年)に休山してから放置されていたようです。ちなみに大正4年(1915年) には、北星坑と東華坑が産出の主力だったそうです。採鉱事務所のすぐ南東側には飯場があったみたい。 飯場の東側が伝説の?十五釜という場所です。
1912年:明治45年6月小出淳太さんによる(採登 601號)日本平鉱山の事業が開始され第五號坑で亜鉛 鉱塊を掘り当てて、俄然盛り上がったようで、飯場も大きくなって分教所もできたようですね。この日本 平鉱山とは、日本平亜鉛鉱山と呼ぶべきでしょう、水上・掛居鉱床の事のようです。山神坑は探鉱する目 的で開坑されただけで、実際に採掘していたわけじゃないらしいです。
日本の鉱床総覧によると戦時中昭和14〜17年(1939〜1942年)に一度探鉱されたようで採鉱もしたの かな?  ほかの資料や昔の新聞の断片から戦時中採掘されたのは蛍石らしいです、蛍石の産量は掲載され ていたのに、持倉での銅の産量は掲載されていない事から妄想。但し、産量が少ない鉱山は掲載されてい ない可能性も考えられますが。  蛍石の産量は、"五十島鉱山跡"に掲載しました。
  戦後、昭和32年(1957年)再度探鉱が開始されたそうです、今でも探鉱に使われた機械が放置された ままです。何を探査したのかは不明、五十島鉱山で蛍石の採掘は既に始まっている状況です。地元では銅 鉱床の探索の5ヶ年計画があったという話が聞こえていたりしてね・・・
  春はいいよね・・・このところマダニに好かれて困ったものです、模様からシュルツェマダニって云う ヤツらしいライム病等媒介するのか。マズイかもね!  いずれもうなじ附近に・・・ブユ・ブヨの歓迎は 半端じゃないです、翌日腫れるんですよね。 ちなみに この文書は 西日本でのマダニによる死亡例が 確認される以前に 書いたものです。(-人-)ナムナム

架空索道の土台
コの字型の土台 持倉鉱山の架空索道の起点

坑口に見えない・・・
北星坑の坑口

昭和33年7月製造 TDH−1穿孔機
㈱利根ボーリング製

ガソリン?
動かす力だヤンマーディーゼル!

持倉鉱山 本山 東華坑口
東華坑口

へぇ〜
東華坑口附近の石垣

通洞坑まで落ちそうな気が・・・
くぼ地なんです 通洞坑の真上

水浸し
二番坑口

塞がってるけど・・・
本山三番坑口跡

本当に 山神坑跡ですか?
山神坑跡にしておこう・・・

酒瓶?
見慣れない形の空瓶

春宵花影風♪
サクラサイタ



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