地質ニュース506号 1996年10月 飯豊連峰の地質 p.13〜p.14

5.おわりに
 今西錦司氏は次のように述べたという。「飯豊は とてつもなく大きな山である。日本で一番大きな山 であるかもしれない。巨象といっても、長鯨といって も形容にならない大きさである。」 確かに、飯豊は大きい。そして、恐ろしい山でもあ る。
 1988年の夏。筆者は、大学時代の山岳部の後 輩、渡辺豊君に地質調査の同行をお願いした。飯 豊連峰で最も長大で険しい飯豊川上流の調査を計 画していたため、強力なアシスタントが必要であっ たのである。
 8月22日の朝、飯豊川沿いに建つ湯の 平山荘を出発し、飯豊川の地質調査を開始した。渇 水期とはいえ、飯豊川の水量は多く、胸まで浸かっ ての徒渉や高巻き、流れに逆らって泳ぐことも必要 であった。こうして飯豊川を遡行しつつ調査を行い、 飯豊川最大の不動の滝の手前に達したのは午後4 時頃であった。そこからすぐに引き返したが、両岸 の切り立ったV字谷の日暮れは早く、途中で薄暗く なってきたので無理をして下ることはせずにビバ一 クする事にした。
 翌8月23日、河床に日が射すのを 侍って、ゆっくりと出発した。徒渉や泳ぎ、ザイルを 使っての懸垂下降などを繰り返しながら川を下り、 9時過ぎに核心部最後のチョックストーンの滝の上に たどり着いた。滝の落差は 1.5m程でその下流は 20m程の函となっていたので泳ぎ下ることにした。
 まず、渡辺君がチョックストーンの上からジャンプし、 水流に乗って泳ぎ下ろうとしたが、ジャンプの勢い が弱かったため滝壷に引き戻されて渦の中に巻き 込まれてしまった。
その後滝壷の下流に浮上し、そ のまま流されて20m程下流の浅瀬に停止した。渡 辺君が全く動かないのを見て・筆者はチョックストー ンの上から勢いよくジャンプして流れに乗って泳ぎ 下り、渡辺君を川岸に引きあげ、応急の蘇生措置を 行った。人工呼吸と心臓マッサージを併用して行い、 3時間程続けたがついに蘇生させることはできなか った。今から考えてみても何が悪かったのかよく分 からない。ミスがあったとも思えない。しかし、現実 に渡辺君は帰らぬ人となってしまったのである。
 遭難現場は、飯豊川の核心部を抜ける最後の比較的 容易な函滝であった。やはり、どこかに油断があっ たに違いない。
 深田久弥氏が感じた無限の秘密のうち、地質に関 することがらはかなり明らかになったものと思う。し かし、遡行困難な渓谷の支流、上流部や道のない尾 根などの未調査地域もかなり残っている。また、主 稜線上に分布する片麻岩の成因や石転び沢のマイ ロナイトの形成機構など、これから解明していかなく てはならない問題も多く生じてきた。
「飯豊山」図幅が日の目を見ることができたのは、 多くの人たちの協力があってのことである。胎内ヒ ュッテ、天狗平ロッジ、湯の平山荘、カイラギ小屋、 門内小屋、杁差小屋、御西小屋、飯豊山項小屋、切 合小屋の各山小屋はたびたび利用させていただい た。関係各位に深く感謝する次第である。そして、何 よりも渡辺豊君の協力なくして「飯豊山」図幅が日 の目を見ることは不可能であった。彼は本当に山が 好きだった。御尊父の渡辺旭氏が葬儀の挨拶で 「豊は大好きな山で死ぬことができて幸福者だった のかもしれない。」と言われたことを今でも覚えてい る。謹んで、同君の御冥福をお折りしたい。

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