HS 1937-S12
実川鉱山
試登第12,132 號 金、銀、銅 東蒲原郡豊実村 鉱業権者:昭和鉱業㈱
1.交通運搬
磐越西線日出谷駅より山元迄10粁其の間馬車鉄道を通ずるも冬期間は交通杜絶す
2.沿革
当山は昭和6年実川の樵夫の発見にかかり7年始めて福島県人高橋善巳試掘権を設定其の後東京市の河本幸村の手を経て同10年10月現鉱業権者の所有に帰せしものなり
3.地質及び鉱床
鉱区は花崗岩を基底とし凝灰岩之を覆い又此等花崗岩及び凝灰岩を貫きて石英粗面岩の露出せるあり鉱脈は石英を脈石とし黄銅鉱を主として他に第二次的の斑銅鉱、
孔雀石を混在す走向略南北傾斜西に30〜40度なり現在迄判明せる露頭は4本ありて内最も有望なるは萬治3鉱脈にして走向延長100余米、
ヒ幅1.8 米走向南北傾斜西へ30度なり、萬治1號ヒは幅1.8 米露頭は中断されつつも60米を追跡し得走向傾斜前者と同様にして同品位平均6.2%なり
4.操業の概況
5月着手と共に萬治坑に於いては直に採掘に着手し年来迄に557頓を採掘せり、更に10月より萬治3
號脈探鉱の為飯豊坑、中切坑及大切坑を開鑿、夫々掘進中にして飯豊坑は坑口より57米にして同脈に逢
着中切坑に於いては圧縮機1台、鑿岩機2台を設置鋭意掘進中にして雪解けを待ち更に圧縮機2台、鑿岩
機15台を設置し、又本山日出谷間10粁に索道を架設の予定なり 従業員数42名
HS 1937-S12
新潟鉱山
採登第71 號外1 銀、銅、鉄、亜鉛 東蒲原郡西川村 鉱業権者:加奈太鉱業㈱
1.交通運搬
磐越西線津川駅より西南方に県道12粁にして西川村栃掘に達し同所より新設の鉱山専用道路4粁にして
山元に達し此の間貨物自動車を通ず但し降雪期は馬橇の外交通の便なし
2.沿革
明治初年土地の住人長谷川某等鉄鉱の山下吹を行わんとせしも中途頓挫、其の後明治40年頃若松の住人
佐藤某等銅鉱を稼行せんとして目的を達せず大正年間に到り越後の住人山口誠太郎等前後6年間銅鉱を稼
行其の間熔鉱炉を建設、銅精錬を行ひたるも欧洲大戦後経済界の不況に遭遇是亦中途にして頓挫休山し其
の後加瀬、太田等の手を経て12年5月現鉱業権者の手に帰せるものなり
3.地質及鉱床
地質は古生層に属する粘板岩、石灰岩等より成り鉱区の外側所々に第三紀層の被覆せるを見る火成岩とし
ては鉱区の東方約2粁人ヶ澤南北に横断せる石英粗面岩の迸発あり
亦鉱区の西方約3粁の谷澤川の基底に花崗岩床露出を見る、鉱床は古生層中石灰岩に接して介在し花崗岩
との接触交代鉱床に属するものの如く、其の「スカルン」鉱物として柘榴石、「ヘデンベルグ」輝石、緑
簾石等を産す鉱石は磁鉄鉱にして所々黄銅鉱の混在せるものあれ共此等黄銅鉱の賦存状態は堅緻密集せる
塊状又は扁豆状なるを以て手選にて容易に破砕分離する事を得、鉄鉱の品位は鉄50〜70%、銅鉱の品
位は銅4〜20%なり、鉱床の走向は古生層と整合し殆ど南北に近く傾斜西に70〜80度なり、走向延
長1200米、幅は1.0〜50.0米の間を膨縮す
4.操業の概況
11月着手と共に露天掘りにて露頭附近の表土を除去し採掘を行いたるも降雪期に入ると共に坑道掘りに
転化し採鉱継続中なり、又鉱床の東側より竪入を4ヶ所に開鑿掘進中にして13年5月着鉱の見込にて選
鉱は現在手割手選に依り粗鉱を80粍程度に破砕「スカルン」鉱物多き貧鉱を排除せり尚解雪を待ち機械
堀に着手の予定にて設備完成の上は日産300瓲に達する見込なり、年末従業員3名なり
※越後の住人加瀬義雄も関わった 加瀬時代に製錬機械の新設を了しとあります。
昔の鉱山名は大元鉱山であり、新潟鉱山の後の名前は、津川鉱山 いずれも紛らわしいです!